研究こぼれ話3

『バングラデシュ事情:街中のサル』

 初めてバングラデシュを訪ねたのは15年前になります。人とリキシャ(人力車)であふれる首都ダッカはちょうど雨期の最中でした。そこに暮らすサルに目を奪われました(図1)。人だらけの市街地をサルが我が物顔で歩き回っているのです。しかも、その数は半端でなく、群れをつくって暮らしていました。工場の倉庫やビルの屋上を泊まり場にして、レンガ造りの建物を縫うように徘徊生活していたのはアカゲザルです。彼らは昔から人間と共存生活を続けています。バングラデシュは回教徒の多い国ですが、サルたちはヒンドゥー教徒がいる地域に多いようです。


図1 市街地に暮らすアカゲザルの群れ.

 首都ダッカ以外にも似たような場所があり、ジャハンギルナガール大学のFeerozさんたちの調査によると、6箇所に少なくとも15の群れ、約800匹が人と共存するそうです(図2)。

 commensalism という言葉があります。野生の生物が人の居住空間に共存・共生したりするときに使われる言葉です。「住家性」ということもあります。 アジアにはcommensalism という表現が当てはまるサルがけっこういます。アカゲザルはその代表例です。インドにも似たような場所があり、アカゲザルの他にボンネットモンキーやハヌマンラングールが市街地に暮らしています。研究者たちは、森を離れて人里に進出する彼らのことを「雑草のよう(weedy)」だと呼びました。食物や繁殖に関係した環境への適応は霊長類の種類によりさまざまです。限られた資源や環境しか利用できない種もあれば、けっこう多様な場所でやってゆける種もいます。「雑草」という表現には本来は生活に好ましくない場所でも生きてゆけるという意味が込められています。でも、本当にそうでしょうか。バングラデシュ都市部のサルについて、その生態はよくわかっていません。初めての訪問以来バングラデシュの市街地に住むアカゲザルのことがずっと気になっていました。

 「住家性」を可能にするのはサル側の適応力だけではありません。共存・共生を許す人間側の問題もあります。「雑草」と考えた研究者たちは生物側からものを見ていますが、commensalism の問題は生物側からだけでなく、特徴的な習慣や宗教をもつ人間側からも見る必要があると思います。


図2 バングラデシュのアカゲザル分布地図. 
緑色の地域は森林部, 赤色の丸は市街地, の生息地を示す.

 2008年8月にバングラデシュで調査をしました。市街地に暮らすサルたちは、間をつなぐ森もなく、孤立しています。交流がなさそうですが、もしそうなら長い時間で血縁の強いサルどうしがコザルを作り近親交配が進むはずです。離れた市街地の間でサルの交流があるなら、遺伝子の多様性が保たれ、お互いに同じような遺伝子をもつかもしれません。サルたちはどのように暮らしているのか、どうやって個体群を保っているのか、を知りたくて遺伝子を調べることにしました。といっても、捕まえて調べるのは簡単ではありません。理由はいくつかあります。特に難しいのは、人間の問題です。土地によってはサルを神獣として大事にしているので、苦痛を与える恐れがある調査はさせてもらえません。また、捕まえようとすると大勢の見物人が集まってきて、思うように作業ができない心配もあります。そこで、糞に残っているDNAを調べています。これは数が少なかったり捕まえるのが難しい動物で開発された技術ですが、バングラデシュでは市街地ゆえの問題を解決するのに利用しています。

 群れに見られる遺伝子の違いを調べるために、ミトコンドリアDNAを比べてみました。遺伝子に長さの違いがあることがわかりました。長さの違いを比較したところ、市街地に棲むサルたちに地域差があるようです。この遺伝子は母性遺伝する(母からコドモにしか伝わらない)ので、メスが出生群から出ないアカゲザルでは地域差が出やすくなります。移籍するオスがいたら、違った遺伝子タイプが見つかるはずです。ジャハンギルナガール大学にはこのタイプを見分ける実験室ができました(この整備では霊長研のHOPE事業から渡航費用の一部を援助いただきました)。市街地で糞を集め、違いを遺伝子で見分ける作業がはじまっています。実験の中心人物は若手講師のHasanさんです。森のサルを長年観察してきた彼にとっては新しいテーマで、これからの調査結果が楽しみです。

 今回実験室を作るのに役立った新技術があります。これまでは野外で集めた糞から腸管細胞にあるDNAを抽出していました。抽出した試料から酵素(ポリメラーゼ)でDNAを増やしてタイプを判定するのが当たり前でした。ところが、今年になって新しい酵素が発売され、それを使うとDNAの抽出なしに、糞から直接にDNAが増やせることがわかりました。バングラデシュの実験室では、停電があったり、良質の水が手に入りにくいなど、不具合があります(図3)。そういう場所では、実験の手間が省けるこの技術はとても便利です。


図3 ジャハンギルナガール大学のDNA分析実験室風景.

 Hasanさんたちの実験で、おもしろい違いが見つかりました。たいていの市街地の群れではミトコンドリア遺伝子のタイプに変異がありません。しかし、東北地方にあるバングラデシュ第2の都市シレートの群れ(Chashnipeer群)では高い遺伝子多様性が見つかりました(図4)。実際にその群れを観に行ったところ、回教の聖者の墓所が民家に囲まれた一帯にアカゲザルが棲んでいました。たしかに市街地ですが、この周辺には茶畑が多く、林がつながっているのでサルの移動がしやすい場所だとわかりました。おそらく遺伝子に違った種類のタイプがあるのは、この群れが外部と交流しているからだと想像しています。


図4 市街地のアカゲザルがもつミトコンドリア遺伝子タイプとその多様性. 
東北部のChashnipeer群だけに多様性が検出できた (Feeroz et al. 2008).

 HasanさんやFeerozさんはさらに各地のサルについて、市街地で孤立する群れと森林地帯に棲む群れで遺伝子の多様性がどれくらい違うかを調べはじめました。またcommensalismの性質に市街地の群れの間で違いがあるかを遺伝子の特徴から比べようとしています。私は彼らの遺伝子研究を手伝っていますが、ワシントン大学のLisa Jones-EngelさんやRandall C Kyesさんたちは彼らと共同でウィルス感染の調査をしています。市街地でウィルス(foamy virus)をもつサルに咬まれた人が感染する例を発見しています。都市に暮らすサルの研究は、これから自然科学だけでなく社会科学でも広がりを示すかもしれません。霊長類を通して共存・共生を考えるのに、貴重な情報を与えてくれるように思います。

 日本ではサルによる農林業被害や人身被害を防ぐこと、そしてそのための住み分けや排除が共存・共生とセットで語られています。現代の日本には「住家性」のニホンザルを許容する文化が希薄のように思います。他の国には別の関係もあるので紹介しました。
                     

2008. 9. 8. 文責  川本 芳


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