研究こぼれ話8

北限のサル考



下北半島のニホンザル(三戸幸久氏撮影)

 各地で起きているニホンザルによる被害をどうやったら防いだり減らせるかという議論がこの2年ほど続いています。環境省によるニホンザルの保護管理マニュアルの改訂が進むなか、技術ガイドラインに近い内容でマニュアルが検討されています。サルだけでなくクマやシカなどでも同様の検討が進んでいます。被害管理と保護管理は野生動物との共存を計るうえで一体のものです。遺伝研究を利用する部分もあり、他所から地理的に孤立したサルたちが抱える絶滅リスクを考えるときには、その多様性(遺伝子多様性)に注目が集まります。
 ニホンザルの保護管理を考えるのに参考になると思うので、今回は本州の北端に生きるサルに関する研究を紹介します。遺伝子や生態の研究からわかってきたかれらの成立と変遷は、寒冷地に適応しながらニホンザルが進化してきた波乱の歴史を物語っています。

 ニホンザルのなかで最も北に暮らすのは下北半島と津軽半島のサルたちです。60年の歴史をもつ日本の霊長類研究で、下北のサルの生態は詳しく調査されてきました(対照的に津軽のサルはほとんど調査されていません)。北縁の寒冷環境に定着してから、下北半島のサルたちはその生存を脅かされる試練を4回経験しているようです。どのような試練だったか説明します。

【1回目の試練】
 化石の研究から、ニホンザルの祖先は43〜63万年前ごろに大陸から日本列島に達しただろうと推定されています。下北半島東北端の尻屋崎では、14万年前ごろと推定される歯が見つかっています。最終氷期より前の温暖な時期には、すでに祖先が北限の地に達していたようです。
 北海道にニホンザルがいた痕跡はありません。最終氷期の一番寒かった時期(約2万年前)は、津軽海峡が消えて北海道と本州がつながりましたが、サルたちが北へ分布拡大した証拠はありません(図1)。1回目の試練となった最終氷期には、北縁からサルが消滅していたようです。ミトコンドリア遺伝子の地域変異からも、最終氷期にニホンザルの分布が南下したと推定できました。氷期を耐える適応はできなかったようです。


図1 最終氷期(約2万年前)と現在の日本の地形と植生(Tsukada, 1982)。

【2回目の試練】
 氷期のあと、ニホンザルの分布域が東日本で拡大したことが、ミトコンドリア遺伝子の研究からわかりました。下北半島やその周辺の縄文遺跡からサルの骨が出土するので、氷期が終わった約1万年前から数千年程度で生息地が回復したと考えられます。当時復活していた津軽海峡が北海道へ渡る妨げになり、現在の分布北限が下北半島や津軽半島になったようです。
 氷期後の温暖化は、生息地の回復だけでなく2回目の試練をサルたちに招いたと考えられます。氷期には現在より120mくらい下がっていた海面が、氷河や氷床が溶けたため上昇しました。その上昇は約6500〜5500年前に最大になり、現在より2〜3m高くなったと推定されています。海が現在より内陸に入り込む"海進"が起こりました。温暖化によるこの時代の海岸線変化を、縄文海進(もしくは完新世海進、後氷期海進、有楽町海進)とよびます。陸奥湾と津軽海峡は下北半島を現在より細らせ、そこに達していたニホンザルを孤立させたため、生存が脅かされたと考えられます。三内丸山のような縄文遺跡の位置からも、この海岸線の変化が裏づけられます(図2)。


図2 青森県の縄文遺跡の分布(左)と縄文時代の地形(右)。
左の図の●はおもな縄文遺跡の位置(岡田・小山、1996)。
右の図は海進が起きた縄文時代の地形を推定したもの(大塚、1948)。

 核遺伝子の多様性の研究から、現在の下北半島のサルたちは遺伝的に東北地方の他地域から孤立し、大きく分化していることがわかりました(図3)。縄文海進が引き金となって生じた孤立の影響は、ボトルネック効果(びん首効果)とよばれる遺伝子タイプとその頻度のアンバランス状態を引き起こし、遺伝子多様性に痕跡を残しています。サルたちは2回目の試練を耐え、下北半島に生き残ったと考えられます。


図3 東北地方のニホンザルにおけるY染色体の遺伝子構成の違い。
マイクロサテライトDNAの変異からY染色体タイプを分類し、
各タイプの出現頻度を比較した(Kawamoto et al.2008)。

【3回目の試練】
 明治以降、西洋式銃が普及して肉や薬用に乱獲され、サルたちは3回目の試練を迎えました。19〜20世紀の記録から、下北で強い狩猟圧がかかったことがうかがえます。1970年代初頭には、生息地が陸奥湾に面する脇野沢周辺と津軽海峡に面する大間周辺の南北に二分され、群れ数や個体数が激減していました(図4)。第二次大戦後の禁猟措置がなければ、最終氷期につづく2回目の絶滅になっていたかもしれません。脇野沢では1963年に餌付けがはじまり、1970年には観光目的の野猿公苑が開かれました。天然記念物指定(1970年)やレッドデータブック登録(1991年)による保護政策もあり、個体数や分布は回復していきました。

【4回目の試練】
 20世紀末には南北に二分されていた生息地がつながり、さらに東へと拡大しはじめました(図4)。農業被害も拡大し、保護政策は転換期を迎えました。青森県は2004年から特定鳥獣保護管理計画を立てて、捕獲をおこなうようになりました。レッドデータブックで「絶滅のおそれのある地域個体群」になっていた登録が2007年に抹消され、天然記念物を所管する文化庁も捕獲容認の見解を発表しました。管理計画が見直された結果、2008年から安楽殺や動物園への譲渡による個体数調整がはじまりました。人間活動との摩擦で、サルたちは4回目の試練を迎えています。


図4 生息地域のメッシュ図をもとに描いた近年のニホンザル分布地域の変化(三戸、2001)

 遺伝子の多様性研究は、北限の霊長類の波乱に満ちた成立と変遷を明らかにしました。個体群の成立にかかった時間は種の進化時間からみれば短いものですが、孤立と個体数変動により遺伝子構成は他の地域から大きく変化していました。オスのY染色体遺伝子の研究から、下北のサルでは移住による他地域との交流が乏しかったことが明らかになっています(図3)。しかし、現在の個体群に観察できる多様性や分化の原因としては、歴史による偶然の影響も大きかったと考えられます。サルたちは4回の試練を経て寒冷フロントの下北に生き、変化しつづけています。保護管理の議論では、現在の状態だけに偏った判断が下されることがありますが、分布やサイズの変動に関する歴史にも配慮を忘れてはならないと思います。
 最後に研究と保護管理の関係について所感を述べます。野生生物の研究に携わっていて、人間活動の影響を感じない人はいないと思います。狩猟や個体数調整などの人間活動は、北限のサルの生存と不可分の関係にあります。科学的な保護管理が叫ばれて久しいですが、研究では理論が先行し、現場の実証はなかなか追いつきません。絶滅が許されない状況で、科学研究の検証は簡単ではありません。保護管理で求められる時々刻々の判断は、経験をもとに試行錯誤しながら下すしかありませんが、多様性研究の成果が役立つ機会でもあります。こうした意識で下北のサルたちの今後を見つづけてゆきたいと思います。

2010.1.13. 文責 川本 芳

 


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