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研究こぼれ話4


ブータンのウシたち


ミタンの母仔。オトナの体は黒く、足に白いソックスがはっきり見えます。コドモは体が茶色で、ソックスがはっきり見えません。

 

 ブータン農業省に協力して、ウシと人間に関する調査をはじめてから4年目を迎えます。以前にネパール高地でウシとヤクの交雑利用の遺伝学調査をした縁で研究に協力する話になり、ブータンのウシを調べるようになりました。この調査では、家畜の交雑利用、野生動物の家畜化を調べて、ヒマラヤの山岳民の暮らしに関係する動物の飼育や繁殖を明らかにしようとしています。こうした課題は、ちょうどブータン農業省が抱える在来牛の利用や管理の問題と深い関わりがあります。総合地球環境学研究所、愛知県立大学、神戸大学の関係者に協力いただきながら、ブータンとの共同研究を進めています。ひとことでブータンのウシ事情を表現するなら、それはカオス(混沌とした状態)だと言えます。今回はこの話を紹介します。

 山岳地帯にウシのいる風景は、ヒマラヤの麓にあたるネパールやブータンでごく普通に見られます。そこには、在来牛がいて、あるときはヨーロッパから持ち込まれた乳牛がいて、高地に行くとヤクもいます。これらが交雑したウシたちもいて、ヤクを交雑に利用する慣習はブータンにもあります。しかし、ブータンの事情をさらに複雑にしているのがミタンというウシです。ミタン(mithun、英語ではmithan、ベンガル語やヒンディー語では gayal、中国では dulong)の分布は狭く、主にブータン、インド(東北部のアルナーチャルプラデシュと東部のナガ、マニプールなど)、ミャンマー(アラカンとチンの高原地帯)、中国(雲南)にいるとされています。もともとミタンはブータン原産ではなく、インドのアルナーチャルプラデシュから輸入したものを利用してきた歴史があります。 

 アルナーチャルプラデシュでミタンは主に肉として利用されてきました。ブータンでは、在来牛と交配して乳を搾ったり、農耕に利用しています。これを初めて観たころは、この伝統がネパールの山岳地帯で有名なヤクとウシを交配して利用する暮らしに似たものだと早合点しました。しかし、調べるうちに複雑な事情があることがわかってきました。ヤクの場合と同様に、ウシとミタンを交配すると雑種1代目のオスには繁殖力がありません。ネパールの山岳民は、雑種1代目がもつ乳用や役用家畜としての高い資質(雑種強勢といいます)を利用するだけで、2代目以降の動物にはあまり関心を示しません。しかし、ブータンではこの事情が大きく違っていて、ミタンとウシを交配して生まれる繁殖力のあるメスをさらにウシに交配して(戻し交配といいます)、2代目、さらに3代目と代を重ねて雑種を利用しています。これが4代、5代と続くと見た目もウシに似てきて、呼び方でもウシと区別がなくなります。こうしたウシの繁殖が続くと、ウシにミタンの遺伝子が流れ込み、ウシの資質に影響する心配もあります。ブータン政府は、ミタンと交配すると経済性が高い在来牛が、遺伝的に劣化することを心配しています。これを防ぐために、国営の繁殖農場で純粋のミタンと純粋の在来牛を隔離して育て、人工授精も利用して他のウシの影響がないように管理を徹底したいと考えています。ここで問題になるのは、ブータンの在来牛がどれくらいミタンやその他のウシに影響を受けているかです。繁殖の元になるウシや各地のウシたちの交雑状況の調べ方、つまり遺伝的判別法を緊急に作って利用したい状況があります。

 さらに事情を複雑にしているウシがもうひとつブータンの森にいます。このウシは家畜ではなく野生種で、名前をガウール(gaur)といいます。外貌はミタンに似ていて、ミタンの家畜化に深い関わりがあると考えられています。しかし、気質はたいへん荒いそうで、ミタンとは明らかに違うそうです。ガウールはインド国境付近の亜熱帯林から温帯林まで広く分布するので、農山村で家畜と接触して交配することも考えられます。政府が管理する東部のミタン繁殖場では、森から侵入したガウールのオスがミタンとの間にコドモを作ったことがあるそうで、この子ウシたちは気性が荒く農場関係者の手を焼かせていると聞きました。


シェムガンの国営ミタン牧場。牧場といっても深い森にあり、ここで繁殖した個体を各地に供給しています。
ミタンの体色は一様ではなく、頭全体が白いものや斑点をもつ個体など、さまざまです。
ウシと比べると額が広く、角の形も違います。


インドの動物園のガウール(メス)
【進化生物学研究所:宗近 功 先生提供】

 

 事情を整理すると、一言でウシといっても、ブータンには在来牛(高地のヨーロッパ系牛タイプと中高地・低地のインド系牛タイプの2タイプ)、海外から導入されたヨーロッパ系牛(乳用のブラウンスイス、ジャージーといったヨーロッパからの改良品種)、ミタン、ガウール、ヤクの5つが区別できます。そして、これらが交配されて生まれた多様な雑種が各地にいます。カオスと言ったのは、こうしたウシたちが北海道の半分くらいの面積に、わずか70万人が暮らす小さな山岳国のあちこちにいるからです。そして、ブータンには高地から低地までの環境にさまざまな人間とウシの関係が広がっています。ウシたちは山岳民の暮らしを支える主役です。チベットやネパールの山岳地帯で有名な長距離の季節的移牧(トランスヒューマンスといいます)を例にとると、ブータンには【ヤクと交雑種】、【ミタンと交雑種】の2セットが垂直的に連鎖移動する二重移牧という複雑な構造があります。そして、ここに書いた【交雑種】のウシたちは一様でありません。
 2009年3月には、中央部にある2つの行政区(BumthangとZhemgang)で冬期の牧民と家畜の放牧状況を調べました。農業省の研究者は3年以上の野外調査により、各地のウシから多数のミルクを集め、タンパク質(ラクトグロブリンとカゼイン)の分子変異を詳細に分析しています。私はミルクからDNA抽出をせず直接にDNAタイプを判定する方法を考えて、野外調査へ応用しています。こうした調査や分析から、しだいにブータンのウシたちの交雑状況、ミタンとガウールの関係、ミタンの家畜化、がわかってきました。また、共同研究者による牧民や農民の調査から、トランスヒューマンスの実態、家畜管理と森林利用の関係などが、わかってきました。次の調査では、ヤクやミタンの多いブータン東部の行政区(MongarとTrashigang)へ調査を広げて、人間と家畜の関わりをさらに明らかしたいと考えています。

(文責:川本 芳)


ミタンとウシを交配したオスウシ(ジャッサと呼ばれています)には繁殖力がありません。山間地での耕作によく利用されています。

 


2009年3月の冬期に撮影した牧民の宿営地。
シェムガンの温帯の森林でミタンとウシの交雑種を中心に移牧を行っていました。
写真は夕方の授乳風景。

 

2009. 7. 8. 文責  川本 芳



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